朝
「まず、怒ります」
「うんうん」
「それから、やっぱり怒ります」
「うんうん、そうだよね」
「そのあと‥‥泣いてしまうかもしれません」
「うんうん、わかるわかる――って、えっ!?」
『朝』
光が痛い。
カーテンの隙間から差し込む朝の光に、茜は目を細めた。
ことり、と置く音は、深夜と違って、喧噪に隠れて小さくなる。そうして、また一つ、テーブルに空き缶を並べる。
向かい側の詩子は、うつらうつらしながらグラスを舐めていた。琥珀色の液体は、すっかり溶けた氷のせいで随分色を薄めている。
「カリスマ主婦‥‥」
その首が、かくん、と折れた。
「詩子、起きてますか」
「マーサ‥‥スチュワート‥‥」
「寝るなら、ちゃんと布団を敷いた方がいいです」
「寝ない‥‥寝ないよっ!」
くわっ!
がばっと起こした目は、うっすら隈取りされていた。やけにハイな詩子だったけれど、笑うより先に、申し訳なさが立った。
「なんか、夢の中でパッチワークしてた」
「寝てるじゃないですか‥‥」
ため息をつく。その先の詩子が眉を顰めて言った。
「茜だって寝ぼけてるよね」
「私は寝ぼけてなんか居ません」
「そのビール、口開いてないんだけど‥‥」
口を付けていた缶を離し、視線をそこに持っていく。
ふぅ。
ため息をつく。
道理でアルミの味しかしないわけだ。
ちゅん、ちゅん。
雀が鳴いていた。もう、すっかり朝だ。
「しかしあいつも携帯くらい持てばいいのに。連絡すらつかないなんて」
詩子が思い出したように怒り出した。さも新しい話題のようで、昨晩から何度も聞いた言葉だ。
「詩子、私も携帯は持ってませんよ」
それに合わせて、茜も何度も使った相づちを打つ。
「あー茜は良いのよ。絶対に待ち合わせに遅刻したりしないし、約束だって破らないでしょ。それに引き替え、あのバカは」
ぷんぷん、と擬音が聞こえてきそうな怒りっぷり。調子に乗って、グラスを一気に傾け
「う‥‥」
そして咽せていた。それを眺めて、再度ため息。
「浩平はバカですが、詩子に言われると少し可哀想になります」
「うっさいわよ」
居並ぶ空き缶は、詩子二人で空けたもの。半分以上減ってしまったボトルだって、詩子と空けたもの。
それから――部屋の隅に、赤い包装にくるまれたプレゼント。「何も無いよー」なんて言ってた詩子だって、きっと用意してるに違いないのだ。
というか、彼女のトートから、黄色い箱が飛び出て見えてる。
約束だったのだ。
ささやかでも、お祝いをする。そういう約束だったのだ。
「仕事で遅くなるかもしれない」
そう言ってくるのは、いつものこと。
「構いませんから」
そう言ってしまうのも、いつものこと。
電話越しでは、私がどんな顔をしているのか、わからないからだろう。
「悪いな、でもちゃんと行くよ」
快活に、あいつはそう言う。
あいつは、待つことの辛さを、知っているのだろうか。
ぎゅっと、胸を抱く。
「電流‥‥無制限‥‥」
船を漕ぎながら、また詩子がうわごとを繰り返していた。
「だから、もう寝た方がいいです。今日はもう諦めて、帰ってください。申し訳ないです」
くわっ!
跳ね起きた。
「あーっ! ダメっ! いまちょっと視界がバチバチ弾けて気持ちよかった!」
「寝ましょうよ‥‥」
呆れてため息をつく茜に、詩子は微笑む。
「寝ないよ」
どこか遠くを見るような眼だった。
「私も、寝ないで待ってる」
私は待てないから。
確かにそう言った――気がした。
「あいつはバカだからさ、どんなに遅れても、ちゃんと来ちゃうと思うんだ。そのときに、茜だけしか居なかったら寂しいでしょ? 私は待てないから」
「詩子‥‥」
詩子は寂しそうに微笑み続ける。
「遅かったけど、いまからでも待つ練習をするのも、悪く無いじゃない?――って、自分で何言ってるんだかわかんなくなってきた‥‥」
何かを突き刺された気がした。
胸の下のあたりに、熱が走る。
だから、慣れない冗談を言う。
「恋人同士、水入らずの方が、愛があって楽しいです」
「がーん」
大口を開けた拍子によだれが垂れそうになって、慌ててそれを拭う詩子。
「ていうか、茜いま、割と恥ずかしいこと言ってた?」
茜は頬を染めて俯いた。
「空耳です」
「茜の口から『恋人同士』なんて、はじめて聞いちゃったっ!」
「だから、空耳です」
ぷい、と横を向いた。
「でも、茜?」
珍しく真剣口調の詩子。つられて、茜も眠気を懸命に飛ばし、その目を見る。
「私にそのケは無いから、諦めてね」
寝ろ、と思った。
「ふわーあ、うん」
詩子の大あくび。噛み殺そうという意識すらもう無いらしい。
茜は微笑んで、その顔を眺める。
「あによ?」
「詩子、酷い顔をしてます」
「茜もね」
再び微笑む。
「本当に」
立ち上がった。ずっと座ったままの脚に痺れが走る。少しよろめく。
部屋の二面に大きく取られた窓を覆うカーテンを、両方とも開けた。何かを断ち切るかのように、思い切って開けた。
シャッ!
「ギャーーーーッ!」
朝の光に撃たれた詩子が、最後の断末魔を上げる。
アパートの二階から眺める、動き始める街並み。住宅地から街へと、人は歩みを進めていく。学生、社会人、幼稚園の送り迎え。それは車であったり、バイクであったり、自転車であったり、徒歩であったり。
ただ待つということは、この街から取り残されていく行為だ。そう思えて、無性に切なくなって、視線を外そうと――した。
時間を巻き戻すように。
その、人の流れに逆行する黒い影を見つける。
まず、怒る。
まずは、怒らなきゃ‥‥
視界が滲んだのは、朝日が目に染みたからだろう。
「詩子――順番を、間違えました‥‥」
振り返ると、親友はテーブルに突っ伏して寝入っていた。